澄み切った青空の見事な秋晴れの空の下、早朝からの勉強に一段落して、駅前に散歩を兼ねてコーヒーを買いに来た。
大学を卒業して早2年。司法試験合格のために浪人していた私は、立ち寄ったコンビニで何気なく転職雑誌を手にとった。
ー いったいどんな求人があったりするのだろう ー
パラパラとめくっていると、どの求人にも例外なく「未経験者は25歳まで」という文字が・・
そして次にめくったページでは、とある大手ゲーム会社のIT部門で高校を卒業して就職し、大活躍している20代前半の方が、腕組みしてかっこよく写った姿が掲載され特集されていた。
ー いったい私は何をやっている? ー
大学1年生から司法試験を志し、早朝6時からアルバイトして夜は司法試験予備校に通って毎日勉強の日々。
入りたかった体育会も諦め、試験勉強が大嫌いな私としては、苦しい大学生活だった。
あれだけの努力がこんな結果に甘んじていることが悔しくて、走馬灯のように苦しい大学生活が蘇り、涙が滲んだ。
ー 本来私が就職していたはずの大手の会社に入って、この写真の人と同じ場所に立ってみせる。 ー
そうして改めて、求人情報欄を見た。
世の中未経験で就職できるのは25歳というルールらしい・・。そしてあと3ヶ月で26歳!
偶然人生の崖っぷちにいることを知り、青ざめ、よろめきながら自宅に戻って、帰宅するやエントリーシートを入力し、2日後から就職活動が始まった。
時は就職氷河期時代。
選択肢は少なく、IT系の会社の求人が目立った。
事務や総合職で就職しても先は見えている。どうせ長時間仕事に時間を使うなら、手に職が付く仕事が良いだろう。超アナログ人間でパソコンも持っていなかった私は、パソコンに対して苦手意識を持っていたこともあり、苦手を得意にすればいいと考え、IT系のプログラマーになろうと思った。
面接は緊張してほとんどまともに話せなかったが、最終的に、未経験をプログラマーに育てる実績を謳っていた社員30名ほどの小さなIT開発会社のプログラマー職と大手通信会社の総合職の内定をもらった。
少しだけ迷ったものの、答えは最初から出ていた。
大手通信会社を辞退する返答を電話でしたら、まさかの辞退によほど腹を据えかねたのか、人事の方から怒鳴って怒られた。
「君は大学でプログラミングをやったことがあるのか? 今からプログラマーになんてなれる訳が無い!」
内定をもらってから、意気揚々と近所の家電量販店に行って、店員さんに「これから会社に入って、プログラマーになるからパソコンを買いにきた。」と依頼すると、これまでどんな勉強をしてきたのか問われ、事の経緯を説明すると、「そんな話があるわけが無い!」と怒られて、売ってくれなかった。仕方なく別の店員さんが対応した。
なぜ客なのに怒られなきゃならない?と思いつつも、プログラミング言語に詳しいようだったので、自身も興味があって、開発の会社への就職を希望していたのだろう。
なかなか自分の望む職業に就くことが難しい時代だった。
さて、いざ入社してみると、新人の同期は4人。
目黒駅からバスで15分の住宅用のマンションのようなところが会社だった。
入社後すぐ、3ヶ月間でC言語研修を習うことになっていて、先輩プログラマーが専任で教えることになっていた。
といっても手取り足取り教えてくれるわけでもなく、職人気質の頑固な感じの先生(I先生)のモットーは、自分の頭で考えて答えを出すこと。
① 分からなくても本などを見てはいけない、②分からなくてもI先生や周りに質問してはいけない。
というルールがあった。
てっきり手とり足取り教えてもらえるものだと期待していた私は、面食らって、その方針についてかなり不満だった。
周りの同期に質問してはならないのは分かるとしても、I先生に質問しても、「それは教えた仕組みを使って考えれば答えは出るよ。」というだけで、一切教えてくれなかった。
例えば、文字列は「’」シングルクオテーションで囲むというルールを教えたあと渡された問題は、明らかにその文字列のルールだけでは解けなかった。
おまけにI先生は、一連の説明をし終えた後に必ず「これは学校の勉強じゃないから」と言って、いつも窓際のうしろに座っている私の方をちらっと見た。
それにカチンと来ていた私は、余計に不満を募らせていた。
高卒だったI先生は、その会社の中では高学歴だった私をコンプレックスに感じていたのだろうか。
会社でも「創業以来初めての高学歴」と話題になっていたようである。
「先生は自分の役割を果たしていない。」
帰りの電車で同期たちにI先生の不満を雄弁に語った。
ところがそれを尻目に次々問題を解いてしまう同期がいるのである。。
彼の名はO君。
O君にはプログラミングの才能があった。
同じ時期に就活していたため、大手IT会社を二人とも訪れていて、O君は最終面談まで行ったそうだが、私は1次のプログラミング適正試験で落ちていた。
応募した中で最も難しい適正試験だったと思う。
C言語研修は、I先生が作成した問題を解いて、それがプログラミングで実現できて先生にOKもらえれば、次の問題の紙を渡してくれて次に進むというやり方だった。
次々進んでいくO君に焦りを感じ、皆に置いて行かれまいと必死な毎日。
当時私がやっていたのは、横浜駅の有隣堂書店に閉店間際に滑り込んで、今日解けなかったC言語の答えが書いてある本を探して読むというスタイル。
教えてもらえないなら自分で調べれば良い、という論法である。
最初はそれで持ちこたえていたが、3日目からポインタが始まり、たった1週間でどんどん進んだ。
そして2週間過ぎた時には、書店のどの分厚い本を見ても、もう答えはなかった。
これが独学と実務の圧倒的な差。独学なんて本当にたかが知れているのだ。
仕方なく、諦めて問題と悶々と向き合う苦悩の日々が始まった。
大手通信会社の人事の人や、家電量販店の店員さんの言葉がよみがえる。
「プログラミングなんてできっこない」言葉が自分の可能性を縛る。
「私はプログラマーになる!」「小学生の時は数学得意だった。」心の中で唱えた。
とにかく1日がとても長い。小学生の頃に戻ったような。プログラミングのレベルは日に日に高度になっていく。
ある時、1つの問題でハマってしまい、どうしてもエラーになってしまい、どこが間違っているのか、
あれこれ試しても見つからず、万策尽き・・全くそこの所で止まったまま3日が経った。I先生は絶対に手助けしてくれないし、自分も意地になっていたから教えてもらうつもりは毛頭ない。
さすがにまずい・・。
頭の中がモヤモヤし、同じ箇所を何度考えても原因がわからないし、手段が思いつかない。
電車の中でも考え続け、自宅でも自分の書いたコードを1行ずつ思い出しながら、あーでもない、こーでもない。
翌朝の満員電車の中でも・・。
とその時、電車に大きく揺られた瞬間ふとひらめいた!
あぁ、私は根本的なところで勘違いをしていた。
満員電車で天井を仰いでハッとして、これに違いない!やっと分かった。
目黒駅を降りるといつもの景色がキラキラして見えた。
会社について、パソコンを起動し、立ち上がるまでの時間がもどかしい。。
自分で考えた修正を行って、コンパイルして実行。 ー 成功!
やった!! 3日の停滞から脱出できて思わずガッツポーズ。
だが、次の瞬間また不安が襲ってきた。
こんな悶々とした日々をこれから毎日やっていくのだろうか・・。 またいつどハマリしてしまうかも分からない。
この業界、鬱病になる人が多いと聞くが、これじゃあ鬱病になるのも自然だよ。。そう思って先行きに不安を感じた。
また悶々と問題と向き合う日々。
しばらくして、またハマった。
プログラミングの最初の行から1つ1つ論理的に詰めて、どこを探しても間違っているところは見当たらない。
論理的には明快だし、色々な可能性を探って、あらゆる手を試した。
それでもプログラミングは成功しない・・
もう限界だ。先頭を走るO君とも相当な開きが出てきた。もうついて行ける気もしない。
ただえさえ司法試験の失敗で完全に自信を喪失し、深く傷ついているのに・・
感極まってI先生に直訴した。「自分は絶対に間違っていない!」隣の部屋にも聞こえるくらいの音量。一筋の涙が。
もう疲れ切っていた。
I先生は冷めた目で私の書いたプログラムを印刷して、しばらく読んだ後、キーボードの→(矢印キー)をトントントンと動かしていった。
半ば半ば放心しながら、画面のカーソルが1つずつ動くのを一緒に眺めていた。
しばらくして、カーソルが大きく動く箇所があった。
全角のスペースが1箇所混ざっていたのだ。
I先生はそれを削除して、コンパイル、実行。 ー 成功。
そして黙って去って行った。
ー もう無理。こんな細かい作業。 ー
どハマりすることを恐れながら、悶々と問題に向き合う先行きの見えない不安な毎日。
もうO君ははるか彼方。私は最下位を彷徨いながら、最後に残っていた自尊心のかけらも粉々になった。
この苦しみから逃れたい。
そんな思いから「退職」の文字がチラチラ頭に浮かぶようになってきた。
ー 所詮無理だったのだ。色々な人は笑うだろう。でももう何でもいい。楽になりたい。 ー
帰り際、人事と方とばったり会ってしまった。
副社長の反対を押し切って、入社を推してくれた人だ。
帰りのバスの中で、あまり上手く行っていないことを話した。
駅のホームの別れ際「会社を辞めるな」と釘を刺された。
ー 何とかしなければ ー
ちょうどその時、難しい難問を解いて脱出した喜びからか、O君が「やったよ母ちゃーん!!」と雄叫びを上げていた。
そして「コンピューターは絶対に正しい」と独り言を言った。
ー そんな風に思うのか ー
私にはO君のその言葉が引っかかった。
思えば、私は自分が正しいと思っていて、コンピューターを従えようとしていた。
O君のように考えてみてはどうか。
それから、私は「コンピューターは絶対に正しい。自分が間違っている」何度も頭の中で呪文のようにノイローゼになりながら唱えた。
すると、どうだろう?
それからは分からない所でつっかかる事が少なくなり、あの手この手が次々浮かんできた。
次第に、コンピューターと対話するように、
「コンピューター様はどう考えていらっしゃる??」「なるほど、ここまではOKという事ですね」
「これはどうですか?」
コンピューターがどう考えているのか、それを探りながら、
あまりつっかからずに解けるようになってきた。
何かの流れが変わり始めた。
そして、問題を解き終わっても、すぐに提出せずに
もっとカプセル化してコーディングの量を減らしたり、オブジェクト指向でスマートなプログラミングを書けないか、I先生に答えを提出せずに、踏みとどまって考えるようになった。
エンジニアとして、プログラマーとして歩き始めた瞬間である。この時私はエンジニアになった。
何かが変わり始め、プログラミングの世界に没頭した。
そうして暫くした時、久しぶりにI先生が会議室に同期4人を呼んだ。
行ってみると、プログラミングが書かれた紙が置いてあった。
「みんな、ちゅうもーく!」そう言って、I先生は、「本田さんが面白いプログラミングを書いた。昔使った仕組みと融合させている。ただ問題を解くのではなく、色んな工夫や別の構成が取れないか考えてみるように。」そう言って、私の書いたプログラミングをまじまじと面白そうに見た。
ー 何この展開? ー
嬉しくて階段を駆け下りた! 「私はプログラマーになる!」
もう怒鳴られた人事や店員さんの言葉は消えてなくなっていた。
O君の独り言が耳に入って来た時、あれ?それって2つ前の問題についてトピックではないか。
という事は??
もしやと思って、同期に「今どこやってんの?」1人ずつ聞いた。
そう、まさかの
TOP OF FOUR !!!
同期の中でトップを独走中だったのだ。
とはいえ、その頃は、一人一人が思い思いに自分のプログラミングを作っていたので、
もはや順位を気にしているのは私だけだったが・・・(笑)
自信が欲しかったのだ。
研修卒業まで、残り大問が3問のみ。
ここで、I先生同期のみんなが追いつくまで待つように言われた。
いよいよゴールが近づいてきた!
もう恐れるものは何もない。
全員が残り3問になった時、I先生が久しぶりに研修の会議室に同期全員に集合をかけた。
机には何かのプログラミングを印刷したA4の紙10枚くらいがそれぞれ置いてあった。
その紙を指して、「これ何をやっているか読んでみて分かる? 今までやってきたことは、忘れてください。
これまでみんなはポインターを定義して、それを使ってきたと思うけど、実務ではそんなことしません。
構造体の中に自己を参照するポインターを格納して、それをつなげて使っていくんだ。そうすることで、プログラミング終了時にメモリーが残らなくて済む。」
?????
これまで色んな難所を乗り越えてきた。
ポインターは研修3日目から始まり、構造体、組み合わせた色んなしくみを教わってというより、
自分で編み出して習得してきた。
まだ何かあんの???? ―
「それじゃ。」 そう言っていつも通り、何も教えずにI先生は去って行った。
残された会議室に重苦しい沈黙がずっと長く続いた。私は、青ざめていた・・。
と、その時。たまたま隣に座っていたO君が話しかけてきて「てことはさ、~をXXXXと置き換えて考えればいいんじゃね?」
「ああ。」 知ったかぶりをかましつつ・・。
― なるほど! そう考えていけばいいのか。 そっから考えていこっと♪ ―
入社して早3か月。全員が研修を無事卒業した。
卒業のご褒美として、目黒駅の叙々苑で焼き肉をご馳走になった。入社時にそういうのがあると聞いてはいたものの、その後の苦労の日々で全て吹っ飛んで忘れていた。
思うに、I先生は、プログラマーとしての頑固な職人気質とポリシーを、研修の場でも貫き通しただけだったのかもしれないが、そこには大きな教育的効果があった。
I先生の下で教わった同期4人は、その後のプロジェクト、実務で全員活躍したのである。
他方、別の先生が担当した翌年の新入社員は、散々たる結果だった。
IT景気もあり、翌年は一挙に15人の新人採用で、先生はとても優しくて手取り足取り。研修の会議室からはいつも笑いが絶えなかった。
私たち同期は、いつも殺伐としていて、必死だった。
私もあんな華やかで楽しい新人研修がしたかった・・と羨ましく思った。
ところが、である。
研修も半ばを過ぎたころ、何人かは暗くノイローゼ気味の表情になってきた。
そして、ふっ切れてさわやかに挨拶してくる朝があって、次の日には座席に姿が無かった。
そうして2ヶ月経った頃には半分に減っていた。
その後7名ほどが卒業して、私のオープン系システムグループにも1名新人の方が配属された。
プログラミングには苦戦しており、上司がいないタイミングで私に治してほしいと嘆願するので、
可哀想に思って、バグを修正し、なぜバグになってしまうのか論理的に説明を求められ、その説明をメモして覚えようとしていた。
たが、そういう問題じゃないと思った。
そもそも、自分の頭で考えてバグを修正する力が無かった。
私の他のプロジェクトへの異動後、しばらくしてその方は会社を去った。
そうして実務に入ってからも1人また1人と会社を去り、最終的にはその期の新人は2人になった。
そしてそれはO君のような人だった。
I先生に教わっていなければ、私はプログラマーにはなれなかった。
それだけは断言できる。
本当にありがたい。
せっかく教えていただいた素晴らしい技術を活用して世の中に貢献できているのか?
若い人に、それを引き継いで教えることができているのか?
時々自分に投げかける。